Double Fantasy – John Lennon Yoko Ono

ALBUM

12月になると思い出すのが、このレコード。

ジョン・レノンの場合12月はクリスマスということで、こちらの知名度の方が高いかもしれないが・・・
知らない人は先ずチェック↓↓

ハッピー・クリスマス(戦争は終った) (2010 Digital Remaster)

何故ダブルファンタジーなのかといえば、ウィキペディア情報を真に受ければ、このアルバムが発売されたのが1980年11月17日、ジョン・レノンが殺害されたのが発売から間もない12月8日となっている。(自分はずっと12月9日と思い込んでいたが・・・ニュース報道があったのが12月9日だったのかも)

このレコードがリリースされたのは38年前、データが正しければ自分は18歳、既に不登校時代は過去の事、定時制高校に通いつつ、日中は医療機関に勤務していた。たぶん・・・

自分はビートルズは好きではないし、ジョン・レノンも好んでいた訳ではなかった。

しかしジョン・レノンが殺されたというニュースー当時は驚きだったし、この後、この影響を多くのミュージシャン、いや、ミュージシャンに限らず、人々は受けていると思う。

政治的、あるいは平和主義者、いやいや、おそらく名前が知れていれば誰でも殺される可能性があるとして、人々は恐怖に慄いた。日本において、ストーカー規制法と直接的な因果関係はないと思うが、個人情報の保護に関する法律を作るべきという気運には少なからず貢献したのではないかと思う。

そして、このアルバムの本来語られるべき賛否も、ダブルの中の片方の「死」という事の重大さによって語られる機会が封印されてしまったように思う。ジョン・レノンの場合、多くの人は「ダブルの中の片方」ではなくて「ジョン・レノンとその周辺」という認識でレコードを購入していたはずだ。こちらのレビューを読めば世間の評価がよく判る。→Double Fantasy

しかしその偏りはこのアルバムの本質を評価する妨げとなっていると思う。人の死は、概念を硬直化させ、その信念は事実認知の妨げになる。

自分は、ほぼ40年近く前に、このアルバム(塩化ビニールのLP盤)を持っていたのだが、全てのレコードを処分してから全く忘れ去られていたレコードであった。Spotifyのようなストリーミングサービスでさほど苦もなく聴ける現代は良い時代、であると同時に、何もせずにいる時間がどんどん少なくなっていくような感覚もちょっとだけあるが・・・まあそれはそれで、また今度考えようと思う。

そこで気づいたのだが、今はこんなレコードも出ている。


DOUBLE FANTASY ‘STRIPPED DOWN’

何が違うのか、どうやら元のリリース版の装飾を取り除いて、かなり元音を忠実に取り出したもののよう。サウンドマニアにはたまらない作品なのかもしれない。でもまあ、自分としては当時の装飾の記憶も音の記憶として残っており、それの善し悪しはともかくとして、元音がクリアではなく、部分的にカットされている感があまり心地よくない、と思う。(以前に書いたハートのライナーと矛盾している気もするが)元々のオリジナルは、当時としては悪くなかったというか、ミキシング技術的には、優れていた方だと思っている。プロデューサーはジャック・ダグラス

では、曲目を見ていこう。基本的にジョンの曲、次はヨーコの曲といったように、それぞれのプロデュースによる曲が交互に出てくる作りになっている。収録曲目はこんな感じだ↓

タイトルだけ見ても、ジョンとヨーコお互いのお題に対する謎かけのようでもある。

スターティング・オーヴァー  (Just Like) Starting Over

先日、自転車に乗っている時にふと、この曲を聴きたくなったのである。やっぱりもうじき12月ということで、この曲のイントロにある鐘の音を思い出し、ノスタルジックな感覚に陥るのであった。ジョン・レノンはその衝撃的な死から、衰退することなく時間が止まってしまっている芸術家な訳である。この曲は元々、単なるロカビリーの焼き直しといった印象だったのが、「遺作」のような役割を担わされることによって名曲になっていった経緯がある。つまり、最初の印象は善し悪しはさておき、こういった印象だった。

ファンは怒るかもしれないが、ジョン・レノンはロックンローラーで、こういうのが好きだった訳だ。たぶんオリジナルは黒人R&Bだが、日本のキングトーンズもまた、同じものを自分なりに解釈して発表していた訳だ。だからといって両方を好きになるべき、と言っている訳ではない。それどころか、たぶん多くのジョン・レノンのファンはダブル・ファンタジーのもう片方に関して、中々許容出来ないのが現実なのだから(たぶん・・・)自分が好きなものだけを聴いていれば良いのである。この後、このアルバムの曲目を紹介していくが、それも自分の好きな部分だけ拾い読んでいけば、それで良いのだ。あるいはここで読み終わって他のページに行くのも全然ありだと思う!!

と、曲の紹介は殆どされてないが、聴いてみて判断してもらえば幸いです。


スターティング・オーヴァー

キス・キス・キス  Kiss Kiss Kiss

このアルバム最初に登場するヨーコの曲。おそらくかなり物議をかもしだした曲ではないかと思われる。これを読んでいるのは日本語圏の人々だと思われるが「抱いて」という日本語を喋るのを日常的に聴いたことがある人は何人いるだろうか。この曲が流行ったから日本人は抱擁の事を「Hug」などと言うようになったという訳ではないと思うが、殆どの日本語を理解する人はこの曲を一般的に、公衆の面前で聴く事に耐えられないはずだ。聴いたことのない人はこちらの→youtubeにて確認してみてほしい。

しかし、英語圏で「抱いて」に変わる言葉を考えてみてほしい。”Hold Me Tight”なんて歌詞はいくらでもありそうだ。というかビートルズの初期の曲でしっかりHold Me Tightというタイトルの曲がある。さらにご丁寧にポール・マッカートニーがソロになってからもHold Me Tightという曲がある。(どうやら最初に作ったバージョンは忙しさから忘れてしまったらしい)それくらいに「抱いて」なんてのは英語圏では普通に言われている言葉と考えて良いのか?で、なんで日本語の「抱いて」はそんなに恥ずかしいのだろう?

な~んてちょっと日本人である事を強調しすぎたかもしれないが、安心して欲しい?のは、ヨーコ・オノに戸惑っているのは日本とは限らない点だ。ヨーコ・オノの連れであるジョン・レノンのファンの多くは、ヨーコの音楽を「恥ずべきもの」と決めつけてしまっている、という仮説は成り立つのではないだろうか。このあたりの悩ましい仮説を、暇な大学生は是非、頑張って研究論文を書き上げてもらえないだろうか。(既にあったら教えてほしい)

まあ日本の若手アーティストの中でも「現代アート」などと色々ともてはやされる人達がいることは知っている。自分もそれらにさほど詳しくはないし、実は感銘をうける機会はあまりない。しかし、このアルバムを聴くかぎり小野洋子は正しくトップスターであり、数少ない日本語圏の世界的アーチストであることは事実だと思う。どちらが先か良く判ってないが、B-52’s はオノヨーコの影響があると思うし、プリンスの1999よりもかなり前にリリースされていたことは注目に値すると思う。

1999

クリーンアップ・タイム  Cleanup Time

これはジョンの曲で、Wikiペディアに情報が掲載されている。たぶんそれほど事実も違いなく、「過去を洗いながす」のではなく、芸能活動をしていなくて暇なジョンは「主夫」として家の掃除をしていたんだ、と思う。このレコードを買う前か、後か覚えてないがプレイボーイインタビューで、一生懸命パンを焼いても一瞬で皆の胃袋に入って無くなってしまう事をジョン・レノンは嘆いていたように記憶している。この曲の価値はどの程度なのか判らないが、自分的にはあまり語らなくていい気もする。興味がある人は↓↓

Cleanup Time

ギヴ・ミー・サムシング  Give Me Something

先の「Kiss Kiss KIss」がビートルズから続くジョン・レノンのファンに対するアンチテーゼだとすれば、こちらは正統派?(これを聴いていて何が正統なのか全く判らなくなるが)。テーマは何とか、目あては何とか、もうどうでも良い感じである。「カモン」「カモン」「カモン」「カモーン」というフレーズでもはや日本人的常識から逸脱することに成功したオノ・ヨーコは、さらに「Give meエ」「Give meエ」「Give meエー!」と、これも「悪乗り」という言葉がジャストフィットする程に様になった歌声を披露する。

ここで自分は規範というものが積みあがっていて、崩すのに時間がかかることを知るのだ。この曲とて元々、学校教育に代表される伝統的な音楽としての積み上げを壊している訳ではないが、そこで繰り広げられる様々な決まり事、それはロックンロールはこうあるべき、のような伝統の継承に近い細かい事、それは大人しくいえば「格好悪い」レベルだし、大げさにいえば「気持ち悪い」レベルでの破壊行為である。誤解を恐れず言い切ってしまえば、本当に気持ち悪い曲だと思う。でもおそらく、それはオノヨーコの策略にハマってしまったということなんだとも思う。今風にいえば「キモカワ」とでもいうべきか?

アイム・ルージング・ユー  I’m Losing You

ジョン・レノンの作品。喪失について歌っている。誤解を恐れず言い切ってしまえば、かなり「女々しい」歌である。しかしもちろん、男が女々しい歌を歌ってはいけないなんて法はない。日本でも演歌の世界では男が女の立場(女形)で歌う事はよくある事だ。

アイム・ムーヴィング・オン  I’m Moving on

続いてヨーコの曲。これは先のジョンの歌に対する回答のように聞こえる。もちろん一つ一つが別の作品なので、単品で聴いても構わない、しかし、この曲の並びは意図的だろう。「自分は動いている、あなたは偽っている」と、女々しいジョンに対して酷い扱いだ。

ビューティフル・ボーイ  Beautiful Boy(Darling Boy)

これは二人の間に出来た息子、ショーンに宛てた歌であることは明白で、また逆にいえばそれ以上でもない曲といえるだろう。つまりジョン・レノン以外の人間がこの歌を歌うことには殆ど意味がない。ブルース・スプリングスティーンが来日した際に「ボーン・イン・ザ・USA」を日本の皆さんが大合唱したのと同じか。まあ非常に繊細な感じに仕上がっていて、ヨーコの毒がなくなった!という感じはするが、しかしなければないで、既に物足りなさを感じてしまう自分に驚いたりする。

ウォッチング・ザ・ホイールズ  Watching the Wheels

これもまたジョンの曲だ。「ただここに座って車輪が回っているのを見ているだけ」と歌うジョンは、主夫、というよりもほぼ隠居生活を送っている自分に対する弁明をしているようにもとれる。まあ、そういう曲なんだろうと思う。たぶんシングルカットされていたと思うが、売れたかどうかは調べてないので不明。

あなたのエンジェル  Yes, I’m Your Angel

ヨーコの歌。私はあなたの天使、あなたの願いが叶うように呪文を唱えるトラ~ララララ、といった徴して歌う訳だが、多くの人は天使ではなく魔女だろ、と思って聞くはずだ。いや、もしかしたら途中で聞くのを止めるのかもしれない、もしくはスキップ?まあ曲調は往年のミュージカル調というか、クラシカルな場面で踊ったりするのに使えなくはないかもしれない。そんな場面で使ったら、たぶん踊りながら眩暈がしてくるのかもしれないが、実際にやったことはないので定かではない。

ウーマン  Woman

これもたぶん、ジョンの死後シングルカットされた1曲だと思う。このアルバムの中では比較的メッセージがストレートで判りやすい曲なのかもしれない。しかし表現としては「Ooh, well, well,」う~ん、まあ、そうかも、のように曖昧しきり、もちろんあくまでも楽曲なので、そこに答えがある必要はない訳だから、その雰囲気が楽しめればいいのだと思う。ただしこのコンセプトアルバムの中で普遍的な「女性」について歌ったように聞こえるこの曲においても、「ようするにヨーコへの歌な訳ね」と勘ぐってしまうというか、確信している人は多いだろう。まあそれもそれで仕方のないことだと思う。そういった作りをわざわざしているのだから。

ビューティフル・ボーイズ  Beautiful Boys

先にジョンの「Beautiful Boy」があったが、こちらは複数形ということで息子ショーン及びジョンも「Boys」の一人だよ、自分からすれば二人とも「おこちゃま」なのよ、と言わんばかりのタイトルだ。実際には子守歌のような感じの作りで、「恐れることを恐れないでね」と4歳の息子と40歳の旦那をあやす歌である。まあこの曲なんかは先のジョン・レノン版(Beautiful Boy)よりは普遍性があると思うので、実際に子守歌として歌っても子どもの心拍数が上がったりはしないだろうと思う。まあ、もちろんジョン・レノン版でも心拍数は上がらないと思うが。

愛するヨーコ  Dear Yoko

露骨にヨーコ個人に対するラブ・ソングである。ヨーコからは「Boys」として纏められた片方にすぎないのに、ちょっと哀れでもあるが、まあ別に怒る気にもならない、どうでもいいだろう。先の「Woman」と比べればアップテンポでむしろ楽しい曲に仕上がっているが、歌うのはどうだろう?この歌の「yoko」という部分を、彼女の名前に変えて歌ってみるのもアリか?ある意味、このアルバム本来の趣旨が巷に共感を持って理解されていれば、それもアリだと思う。

男は誰もが  Every Man Has a Woman Who Loves Him

「男は誰もがその男を愛する女がいる」その逆もしかり、的な、LGBTやその賛同者からすればかなり旧泰然とした主題なんじゃないかと思ったりもするのだが、この曲は神秘的というか結構オドロオドロしい雰囲気があり、誤解を恐れずにいってしまえば「怖い」雰囲気がプンプン漂っている。

ハード・タイムス・アー・オーヴァー  Hard Times are Over

アルバム冒頭、ジョンの”Starting Over”は(まるで)出会った頃に戻ったみたいというか、やり直すことを示唆する内容である意味、気楽さのある歌詞だが、ヨーコは苦しい時は終わった(しばらくは)と、現実的な答えを用意しているんだと思う。これは、このアルバムをリリースするにあたっての両者の犠牲にしてきた事の違いではないかと思ったりする。ジョン・レノンはやり直してもゼロに戻る訳ではない。しかしヨーコ・オノからすれば、プラスだったことが殆どなかったのではないだろうか。

つまり、このアルバムの共同制作で、両者がようやく並列に作品を並べることが叶ったのだと、自分は思う訳だ。

今までのジョン・レノンのレコードは、ジョン・レノン名義であったとしても、(イデオロギーレベルで)大いにオノ氏の影響を受けており、そういう意味では今回のこの「ダブル・ファンタジー」でジョンはヨーコの呪縛から解かれて、(駄作でも構わないので)思う存分に思った曲を作ったのかもしれない。そしてヨーコも自分の表現をジョンの力を借りずに、セルフ・プロデュースで表現することが叶ったのだ。

長くなったが、このアルバムでジョン・レノン及びヨーコ・オノが主張したかったことの一つ、それがおそらくBeatles時代からソロに至っても付きまとい続けていた呪縛、つまり二人の仲を賛成しない者たちへの反発から解き放たれ、自らの(それぞれの)足で立つことが可能になった、という事。

最後に。

このアルバム、現在持っていないように、それほど思い入れもないし、好きな訳ではない。しかし冒頭の「スターティングオーバー」は有名だし、カラオケでも歌っても、あまり反感を持たれないかもしれない。そう思って該当曲だけ聴いてみようと思い立ったのだが、アルバム全体がたぶん、現代の人によく判ってないかもしれないな、そんな風に思い、長々と紹介文を書いてしまいました。まああまり褒めてない気もするけど、もしよかったら全編通して聴いてみては如何だろうか?


Double Fantasy

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