ボブ・ディランと日本のフォークソング周辺のボブ・ディラン感

ポピュラー

何かを伝えようと思ったとき、多くの場合にそれは自分の思ったとおりに伝わらない。

よく判る、という場合にもそれはその人の内部でその人が持っているデータや固有の気質などを通した時に、自分がアウトプットしたものをその人なりに評価し、共感する訳であるから仕方がないことなのだが、やはり伝わらないことに変わりはなく、純粋に伝わらない事以上に、誤解された共感には後々の困難が伴う場合が多いように思う。単純にいえば「こんがらがって」いくのである。

自分はファレル・ウイリアムスの「24Hour So Happy」というサイトが素晴らしいと思っていて、流行っていた当時、それを多くの人に伝えようと思った。(現在サイトは稼働していないっぽいが、youtubeで動画を見る事は可能→こちら

これは音楽の好みではなく、物事を伝えるための方法論(アプローチ)として素晴らしいと思う、という意味だった。つまり元々、ファレル・ウイリアムスや流行の音楽、あるいは黒人音楽を好んで聴く等の嗜好とは関係なく、自分たちもこの方法論を使って自己表現をすべきだ、という主張をした訳である。

勘のいい人は既に何かを連想しているかもしれないが、話をしていくうちに何人かは「ようするにこういう事でしょう?」というのだ。

恋するフォーチュンクッキーご当地版

その都度自分は「そうではない!」と声を荒げたくなってしまうのであるが、そこは自分の説明不足、あるいは自分の主張する概念がしっかりとした形状を持っておらず、多くの人が持つ共通認識に負けているという事になってしまうのだろう。

自分は「24h Happy」において、1曲の中で個人が「上手い下手は関係なく活き活きとダンスをしていること」、それが「24時間続くこと」の凄さをもって、この作品を評価したつもりであったが、これは実際にそれぞれの評価に置き換えた際に「みんなで仲良く、それなりの基準でダンスをすること」と「みんなで同時に1曲だけ踊ること」になってしまっていたようだ。

その後、ファレルの24h Happyに触発された全国の人々が自分たちで動画を作り始め、「ご当地版Happy」動画が巷に溢れはじめる訳だが、それらはまさしく「皆で同時に1回だけ、それなりの基準で仲良くダンスをする」動画となって世界を駆け巡る事となった。そうなってくるともはや元の良さなんてあったもんじゃないというか「それぞれの規範の中で、受け入れられるべき者が生存する社会のあるべき姿」のような・・・無意識的にではあると思うが「こうあるべき」のハードルを高く形成するのに一役買ってしまうのである。

もちろん、ファレル・ウイリアムスが伝えたかった事がどの辺りなのかは正確な所は自分にも判らないのであるが、多くの人達が感じたものは自分とは違っていた、あるいは、自分と同じだったとしても予期していたものと違った形でアウトプットされてしまった。。実際、この件に関しては自分自身がアウトプットする機会がなかった訳で、自分であっても質の悪い「ご当地版Happy」を作る事に貢献しただけかもしれない。つまり、一概に批判するばかりでもいけないことは判っているのだが、結果的にはあまりハッピーとはいえない。

さて、前置きが長くなってしまったが・・・

自分がボブ・ディランを評価する部分と、(少なくとも昔の)多くの日本人が評価するボブ・ディランには大きなズレがあったと思っていて、それを例えれば「ご当地版Happy」にほど近い、という事を伝えたかったのである。

自分は辛うじて日本のフォーク世代ではなく、強いていうなら歌謡曲世代?関東北部のかなり保守的な地域社会において、テレビジョンによって洗脳され、学生運動やリベラルな思想とは程遠い世界で思春期を過ごしていた。もちろん地域を肯定もしないし、フォーク世代も肯定しない。

ボブ・ディランを聴き始めたのも、偶然にFMで全曲放送をエアチェックした事から始まっていて、それまで自分はボブ・ディランに対して、吉田拓郎とか井上陽水のような気持ち悪い歌い手が神として拝めているアメリカ人歌手、くらいの認識しかなく、ボブ・ディランといえば「フォークの神様」という不名誉な称号?が与えられていた人のように連想している。それ以外にもガロという気持ち悪いグループの歌手に出てくる「ボブ・ディラン」、フォークグループ「ホフ(保父?)・ディラン」なんてのもいた。(気持ち悪い・・・失礼な言い方だが当時は本当にそう思っていた。今では少し気持ちは変わっていることを付け加えておく)

もちろん、自分の場合はそれ以前に、サイモン&ガーファンクルが日本ではビートルズやカーペンターズほど評価されていない事について認識していた訳で、それによって洋楽(いわゆるポピュラーミュージック)全般において探る上で、日本人的なメディア感では損をすると確信していた部分もあったため、ボブ・ディランを嫌悪する必要はなかった。

そして、聴きはじめて、ボブ・ディランに関わる日本語の対訳や関連文献等を読み漁り、ボブ・ディランと日本のフォークソング・カテゴリーとの本質的な違いを確信するに至るのであった。

これは日本においてフォークソングを流行らせた人が悪いという訳ではないと思う。

ボブ・ディランに憧れ、外見やライフスタイルに関しても影響を受け、それを真似をしようと試みたにすぎないのだという事には、かなり後から気づいた。

これらの方々の外見からは、ボブ・ディランに対するオマージュが表れている事は案外判りやすいのかもしれない。

しかし問題なのは、日本という国において、前者と後者のどちらが有名であるかという事。

ノーベル文学賞を取ったからといって、誰もがボブ・ディランを好んでミュージック再生する訳でもないだろう。ただ好まないとしても井上陽水氏や、みうらじゅん氏を知らない人は少ないというか、認知の度合いはおそらく高いのが日本文化というか、一般的な話だと思うのである。

井上陽水氏や、みうらじゅん氏にケンカを売るつもりは毛頭ないが、ボブ・ディランのイメージダウンに貢献してしまっているのは確かだと、自分は思う次第である。

だから何?と言われれば、大した事ではないのだが・・・ちょっと書いておきたかっただけです。

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